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栗原良彰個展「コンパニオンバード」

栗原良彰個展「コンパニオンバード」
日程:2017年05月19 日(金)~2017年06月26日(月)
時間:11:00-18:00
休み:会期中無休
料金:無料
会場:104

この度、アーツ千代田 3331が運営するコマーシャルギャラリー「by & by 3331」の第一弾を飾る展覧会として、栗原良彰個展「コンパニオンバード」を開催いたします。
「アーティストは、自由の体現者であるべきだ」という考えを持ち、特定の表現スタイルにこだわらず制作を続ける栗原は、この度の個展で自身の代表作であるビデオ作品の展示とインスタレーションを行います。巨大なコーンの輪切りに向き合った時、鑑賞者は何を思うのか?

主催:by & by 3331

<プロフィール>
栗原 良彰 Yoshiaki KURIBARA
1980年 群馬県生まれ、在住。東京藝術大学大学院博士課程修了。
「アーティストは、自由の体現者であるべきだ」という考えを持ち、特定の表現スタイルにこだわらず、彫刻や絵画、インスタレーション、ビデオ、パフォーマンス、映画など、あらゆる表現方法で意欲的に制作活動を続けている。「アートを超えて外側の世界に触れる時に本当に見たい物があるような気がする。」

<トークイベント「コンパニオントーク」>
グループやコンビで活動することもある栗原良彰が、一人で制作を行う映像シリーズについて、作品を前にしながら、栗原を学生時代の頃から知る長内綾子とともに語ります。

日時:5月19日(金)16:00〜
場所:1階 104
ゲスト:長内綾子

1976年北海道生まれ。2004年、アーティストの岩井優らとSurvivart(サバイバート)を立ち上げ、トークや展覧会等を企画。以降、3331 Arts Chiyodaのほかアートの現場に様々な形で携わっている。また、2011年11月より拠点を東京から仙台へ移し、自宅の一軒家を『全部・穴・会館<ホール>』と命名して、上映会やトークイベントなどを不定期で行っている。

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「孤高にしてユーモラスなアーティストの肖像」

今回の個展で展示される、2006〜2010年に制作された栗原良彰の映像作品を、あらためて観賞するとき、様々な思いにかられる。
これらの出展作のなかで、私が一番興味深いのは、「ガーデンプレイス」(2006年)と題された作品である。この映像には、オチがついている。壁(障害)を突破するには、穴を掘るより金網のフェンスを跨ぎ越したほうが簡単というわけだ。だが、フェンスのフレームの外側、フェンスの横を通過すればもっと簡単ということが、映像から看て取れる。とはいえフレームの内に留まるなら、苦労して穴を掘り進めるより、跨ぎ越したほうが楽であると納得させられる。
この作品は、二重のフレーム(フェンスと映像)の仕掛けになっていて、障害の乗り越え方だけでなく、世界の境界を画定するフレームの問題を喚起している。映像の内容は、穴を堀り続けていくことで、フェンスを地下から潜り抜けるという正統派の脱出劇(栗原が例として挙げる、捕虜がトンネルを掘って集団脱走する映画「大脱走」)を戯画化する。しかし、この作品が突出しているのは、栗原の立体作品に認められる物の過剰さが、映像の奥行きの超越に変換されるマジックを駆使しているということである。この効果は、彼の計算されないユーモアの現れなのか? それとも、心憎い演出に自ら陶酔している姿なのか? 後者が正しければ、なおのこと面白い。なぜなら、その心憎い演出に共鳴する鑑賞者は少ないはずで、そうなれば作品は余計に孤高の色を深めるからである。
次に「コンパニオン」(2007年)は、悪夢のように襲い来るお化けコーンの災厄から逃れようと努める侘しい訓練の顛末である。これが笑いの種になるのは、件のユーモアと孤高の狭間で、主人公のアーティストが揺れ動いているからだろう。
「ミッドナイトコレクション」(2007年)では、郊外の空き地にぽつりと立つ深夜の電話ボックスのなかで、孤高の演技が繰り広げられる。地中からはい出したダチョウ男(?)が、電話を掛けてきた何者かに答えようとする心許ないジェスチャーが哀愁を誘う。ここには、野菜ロケットの発射実験の作品「ニンジンハクサイ」(2006年)同様、微かながら抵抗の徴が感じられる。霧が這う明け方、無人の電話ボックスから少し離れて、茂みの中にダチョウ男が所在なげに突っ立っているシルエットが印象的だ。
総じて、栗原の映像作品は、彼がその時期に制作していたインスタレーションなどの立体作品に呼応して、彼の全作品に通底する非対称で不均衡な表現から醸されるユーモアと孤高が特徴となっている。だが、今回の展示で見逃してならないのは、彼の作品が10年の間に色褪せるどころか、新たなそしてより重要な意味を帯びて立ち現れていることである。
作品が制作された10年前からさらに管理が徹底し、人間の無意識まで侵食している現在の社会状況は、勇敢な「大脱走」をまったく不可能にしている。脱走することが不可能なので、(10年前「大脱走」のカッコ悪さを栗原は揶揄しているが)今や大脱走という名前自体が蒸発してしまった。この超管理社会の光の下で栗原の映像を観賞すると、侵食された無意識をひっくり返すモーメントが隠されていることに気づく。彼の作品は、フレームやゲージの外部を映し出すことで、ひっくり返るとぶっきらぼうに指し示しているのだ。無意識とは、現実の風景をフレームに収めて切り取ることであり、そのフレームの外側が見えた途端、無意識は吹き飛ばされる。
現在、フレームの外部を見させない巧妙な方策が施されている(学校教育からメディアの情報操作まで)が、図らずも(無意識に?)フレーム=ゲージの外が覗く栗原の作品は、反時代的に衝撃的である。その暴露を可能にしているのが彼の視点であり、それが風景を平面的にし、かつそこから映像の過剰さ(奥行きに変換された)が引き出される。とはいえ、「Egg Shape」(2010年)のように居心地のよい殻を破って生まれた雛は、巣のなかで遊び呆ける際も、ユーモラスで孤高であり続ける。
さあ、アーティストが挑戦した巨大コーンの輪切りを前にして、鑑賞者も栗原=ドン・キホーテのように遊戯してみてはどうだろうか?

市原研太郎(美術評論家)

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